つい先日、反貧困ネットワーク(NPO法人自立生活サポートセンター・もやい)事務局長・湯浅誠氏の話を基に「反貧困と国民総幸福量」 を掲載させて頂いた。今回はEisenの個人的体験を通して貧困や格差問題に付いて感じることを記す。取り留めの無い、だら文であることをお許し願いたい。
1)プロローグ
Eisenの年代の者なら誰も、食べる物と言ったらサツマイモしかなかった時代があった。家の玄関に芋の山。兎に角一ヶ月、芋又芋の連続。(焼き芋、芋パン、芋入おじや、芋入味噌汁、干し芋、芋団子etc.
形は変わっても本質的にイモであった。)それが小学校に入る頃迄延々と続いた。親はその時代の事を、「良く生きてこれた」と感慨深げに話していたし、本当に大変であったと思うが、物が無い時代と言うことは判っていたし、周りもそうであったので、そう大した不満は無かった。同じ東京でも、その芋でさえ容易には手に入らなかった人も多かった様で、芋があるだけマシだったと言う人がいる位である。そんな訳で、その時代にもう、一生分の芋は食べたと思っている。従って石焼芋に目の色を変える人を見ると、複雑な気分になる。
米国で一頃、ミリオネーヤー(百万ドル=1億円)の富豪と言う言い方があったが、もうかなり昔のことである。今や日本でさえ1億円クラスは幾らでもいる。現在はビリオネーヤー(10億ドル=1000億円)が単位である様だ。そして成功者の代表例として良く出て来るビルゲーツの様に、米国社会ではその10倍~100倍即ち、何兆円もの富を独り占めする様な富の偏在がある。その一方、多くの低所得者層がおり、自由な競争社会とされるアメリカではあるが、スラムの問題や多発する犯罪の増加で、アメリカこそが格差社会の象徴とされて来た。
それに反し日本は1億総中流社会、平等である。それ故、日本は格差がなく、住み易いと長い間信じられて来た。しかし、ホームレスやフリーターの増加、毎年3万人を超す自殺者、秋葉原無差別殺人事件の背景等から、日本に於ける貧困層の増大が指摘されている。そして日雇い派遣問題等を通し、隠れていた日本の中の格差社会の現実がクローズアップされて来ている。
東京新聞2007年10.07 で指摘されている様に、この格差は1980年ころから徐々に広がり始め、今や日本も米国に劣らぬ位の格差社会となって来た。その貧困者の多さと、貧困のレベルはアメリカ社会と同じ位酷いかもしれない。何で短期間にこの様な格差社会となってしまったのか、その背景はなんなのかを考えて見る必要がある。
2)1960年代
未だ円が1ドル=360円の固定相場制であった。 (IMFは国際通貨として金・ドルを世界の基軸通貨とした。ブレトンウッズ体制下、当時米国は圧倒的な経済力を誇っており 金1オンス=35ドルの交換が保証されていた。)
米国の国内産業は50年代~60年代に大きく発展し、工場の生産性は大幅に向上した。日本は50年代の安かろう・悪かろう製品から抜け出す為に、品質管理を含め、全ての工場運営に対しアメリカを見習い指導を仰いでいた。日本で日科技連が音頭を取っての、デミング賞等が盛んであった頃である。
第18回オリンピックが東京で行われたのが1964年。首都高速が出来、代々木のオリンピック村が出来、海外から多くの観光客が来日し、オリンピック景気で大変なものであった。国威発揚を目指し、日本中が沸いていた。Eisenは英語の通訳でかなり高額なアルバイトをしていた。しかし、今思い出してみると皆裕福であった訳ではない。カツカツの生活であったと思う。しかし、誰もがそれで普通と思っていた。大きな格差は感じられなかった。アメリカを始めとする多くの西欧諸国の生活レベルに比べ、マダマダ発展途上の日本であった。丁度、現在の北京オリンピックと同様な状態と考えても良い。
Eisenが始めてヨーロッパに出張したのは1969年。 ドル、外貨は未だ為替管理制度下にあり、外貨割り当てが少なく、海外旅行さえ自由化されていず、誰でも海外に行けると言う時代ではなかった。工場から初めての海外出張者と言う訳で、羽田飛行場には課長以下、多くの(3~40人以上)の見送りの方々が来て呉れ、花束を貰った記憶が今尚鮮明である。当時、海外に行く場合は荷物の関係もあり、自宅から空港迄ハイヤーで送迎された。暫くして、それはタクシーに変わり、その後リムジンバスになった。成田と遠くなった事もあるが、今時は花束を貰う等夢のまた夢、オフィスでも「じゃー行ってきます。」でお終い。変われば変わるものである。
Eisenが残業月220時間を6ヶ月連続でおこなっていたのもこの時期である。今なら、36協定違反で大問題であった筈であるが、当時、私はそれ程大変だったと言う思いはなかった。4月に始まった新たなプロジェクトに自分を掛けて見たのである。春が過ぎ、夏となり、秋になったが、その間、季節を感じる暇も無いほど、工場にい続けた。朝早くから、深夜迄の残業徹夜の連続である。寝泊りは会社の近くの4.5畳の寮。当然の事ながら、半年間休日も無く、デートをする暇も無かった。しかし不幸と思った事はなかった。無理やり働かされていたと言う事はなかったし、仕事が生きがいであったからである。
同じ仕事でも、いやいや、無理やりに働かされていたら、不満や精神的・肉体的疲れで参っていた可能性が非常に高い。(自分自身の体験からは月220時間の残業は大変ではあるものの、肉体的疲労だけから言うと大したことは無い。新聞で、過労死等の報道を見る度に、単なる過労ではなく、同僚、上司からのいじめ等で精神的にまいっていた?等の方が大きい要素かもしれないと思うのだが。)
真夜中、近くの同じような寮に住む女性達から差し入れのラーメン等も結構あり、皆良く頑張った。生活は豊かではなかったが、誰もが明日を信じて頑張る日々であった。
3)1970年代
1960年代のベトナム戦争で大量のドルを消費した米国は大幅な財政赤字となり、国際収支が悪化して金ドルの交換を保証できなくなり、ニクソン大統領は1971年8月ドル・金交換停止を発表した。(ニクソン・ショック=ドルの信用失墜、市場大暴落)。これにより、ブレトンウッズ体制は崩壊し、スミソニアン体制となり変動相場制へ移行した。円は360円から大きく、切り上げられ、250円、220円~その後の100円時代へと突入して行った。ドル資産を持っていた人は、徐々にではあるが価値が1/3以下に減少したのである。(Eisenもこれによりかなりの損失を蒙った)
1974年、アパルトヘイトで有名な南アフリカ共和国に長期出張したことがある。
ヨハネスブルグやプレトリアはアフリカのヨーロッパと言われる程、綺麗な都市であった。現地でびっくりしたのは、白人の生活レベルの高さ。20歳代の係長クラスでプール付きの豪邸に住んでいた。それに反し虐げられた黒人達の生活レベルの低さ、住居は戦後の日本のバラックと同じ。そのレベルの低さとその格差に驚かされた。
しかしケープタウンではカラードと呼ばれる有色人種(黒人・白人以外)の人達の生活レベルには違う格差にびっくりした。何かと言うと、日本との格差である。カラード達は、当時の日本の都営住宅、県営住宅の2倍以上の広い敷地に建った、かなり良い家に住んでいたのである。カラード達の生活レベル(住環境)だけを言うなら、日本の方が低く、問題とされるべきなのは日本の方ではないかと思った位である。詰まり、カラードに関する限り、南アでは生活レベルの実質的低さではなく、白人との格差が問題となっていたのである。
Eisenは南ア行きの直前に初めての家を建てた。60坪位の土地に小さな家である。南アでその家の話をしたことがあったが、総額○○円と聞いただけで、彼らはびっくりし、テニスコートは何面あるのか、自動車は何台持っているのかと聞いて来た。何面どころか、テニスコートの何分の1かの土地に小さな家、自動車は未だ持っていないと言う説明を信じられないと言う面持ちで聞いていた。日本での物価の高さの一例であるが、南アの様なもの凄い格差が殆ど無いと言うのも彼らにとっては新しい話であった。
黒人や有色人種が数百名もいる工場では、部品や冶工具を狙った盗みが横行し、対策として、帰宅時に全従業員の身体検査が毎日あった(日本人、白人を除く)。現在の空港での厳しい所持品検査、身体検査と同じシステムでの日常的な検査は多くの差別を生み出していた。
(尚、現在の中国の殆どの工場では同じ様な盗難の横行で、身体検査が日常的に実施されている所が多く、日本の工場の様な従業員信頼のベースである、性善説は前提とはされていない。(XY理論以前の問題))
4)1980年代
80年代は日本製品の品質の良さが認められ、世界中に日本製品が輸出されて行った時代である。Japan as No.1の本が売れ(79年~)、日本が一人勝ちした様な感じで鼻高々、GNP世界第2位となり、日本の経済成長に世界が目を見張り、日本製品=良い品質と言う評判が立った。
Eisenは仕事で多くの国々(数十カ国)を回り、多くの都市で様々なレベルの人たちの生活を見て来た。
中南米諸国はどこに行ってもかなりの貧困層を持ち、犯罪率は高かった。麻薬シンジケートで有名なコロンビアのボゴタ、メデジンや、ベネズエラのカラカス、メキシコのメキシコシティ、チリのサンティアゴ、パナマ等等である。
それらの都市の多くは、海抜2400メートル級の高さにあり、高級住宅はその中の低地に集まる。酸素が多いからである。犯罪が多い為、高級住宅街一体は高い塀で囲まれ、銃を装備した兵士が櫓の上から警護する囲いの中、堅固なガードシステムの中で生活する。
(Eisenをケアするコロンビア、ボゴタの現地マネージャーはアタッシュケースにピストルを忍ばせ、秘密警察の手帳を持って毎日 警護してくれていた。)
周辺の小高い丘陵の上は、遠方より見ると見晴らしも良く、上流階級の別荘地の様にも見えるが、実際はどこも、貧困者の集まる、低地より空気が薄いスラム街である。そこでは電気と水だけは只、無料である。夫々が勝手に屋外の電線から電気を引き、(盗電ではあるが政府は黙認)自分で泥を捏ねて焼いたレンガで家を造り、水道を引き生活する。しかもその様な家から、会社に行く時だけは上下びしっとしたスーツで出かけるのである。貧富の差は大きかった。しかし貧困を理由とする自殺者の話は聞いたことがなかった。
東南アジア、中近東諸国でも貧困はどこにもあり、スラム街も必ずあった。アルジェリアの有名なカスバ等、迷路に迷い込んだら生きて帰れないと脅かされた位の場所もEisenはVTR片手に潜り込み、何とか無事に帰還した。
交差点で車が止まると、窓拭きをして僅かなチップをせがむ子供達の群れや、小銭をせびる路上生活者はどこにもいた。貧困者を殆ど見なかった国はスエーデンやデンマーク、フィンランド等、北欧の国々だけであった。
社会保障がしっかりしているのと、冬の寒さが路上で生活出来る様な生易しい自然環境ではないのも一因であろうと思われた。
5)1990年代
湾岸戦争勃発を期にバブルがはじけ、株価は暴落、急激な不況へと突入して行った。
(Eisenも株で大幅な損失。)
新宿、上野等でのホームレスの数が徐々に増えて来た。派遣社員はこの頃からかなり多かったが、まだ若年層(学校出たて)で定職に付けない等の問題は殆どなく、社会的に大きな問題とはなっていない。
1991年から4年間、アメリカに駐在となった。
(Eisenはマンション購入直後である。住宅を購入すると、社内移動で遠方に行くというジンクスはここでも実証された。購入後一度も住むこと無く渡米。そして帰国後も勤務地の関係で全く住めずに、本当に一回も住む事無く、最後はバブル時購入の1/3の価格で売却。住んだ事が無い為、住宅購入の各種恩典は全く受けられず、株とマンションで約1億円の損失。自殺もせず良く生きてこれたと思う位。)
渡米して一番の驚きはアメリカ人の給与体系が、日本人の給与(年齢職種等で比較する日本での平均給与)の約半分強であった事。1ドル=360円時代には憧れの的であったのに、給与的には日本が遥かに追い越していたことである。(実生活や住環境はアメリカの方が遥かに上で、日本のGNP第2位の実態に疑問を感じるほど。Eisenの住んだ家でさえ敷地は800坪もあり、軽井沢に住みながら車で15分位にある会社に通う様な毎日。アメリカの凄さを感じた。)
90年代中ごろから、日本では不況対策・コスト削減の為、パート、アルバイト、派遣社員の割合が非常に多くなって来た。 多くの優秀企業でも、コアコンピタンス以外の職種ではアウトソーシングが盛んになり、派遣社員に肩代わりする事がはやり出した。これにより会社の個性が消えて行く場合が多くなった。
終身雇用による年功序列が悪平等であると言われ始め、代りに業績評価体系導入される様になって来た。ボーナスや給与の仕組みに取り入れられ、成果主義がもてはやされる様になって来た。日本の多くの企業では次々と成果主義を取り入れ、一時的には業績が上がった処もあるが、大多数はじりじりと業績が落ち込んでいった。
6)2000年代
Eisenは上海と青島にて中国の2つの国営企業の経営にタッチ。しかし、副社長以下、部長級の人達の無気力、仕事をしないのには泣かされた。共産党の党員というだけで、踏ん反り返っている人が殆ど。しかも首にしようにも出来ない。それに反し、課長級以下の現場の社員は皆良く仕事をしていた。彼らは仕事をしないと首になるからである。
幾つかの会社では今月の最優秀社員と、最劣等社員が写真入りで理由と共に並んで掲示され、最劣等社員は罰金を取られ、最優秀社員はそれを受け取る等が日常的で、3回最劣等となると解雇される等の仕組みもあった。当然モラールは良くない。ここでも中国社会の格差をまざまざと見せ付けられた。
中国上海での大卒の初任給は3000元±200元位(約42000円位)、工場の労働者で1000元、居酒屋のウエートレスの給与は600~800元と言うレベルである。Eisenが始めて給料を貰ったのが67年で26000円。41年後の今日、大学生の初任給は10倍の26万円位であろうか。今の中国の方が当時の日本の給与水準より良い可能性がある。)
上海や青島の居酒屋は日本人や中国人の富裕層を対象にしていたが、日本の価格の1/3以下の値段で、高級料理が食べられ、ウェートレス達のCS対応度は、日本を遥かに上回っていた。彼女らは必死に日本語を勉強する等、涙ぐましい程の努力。月給12000円以下で相当キツイ生活であろうと思われたが憂いや生活苦は感じられなかった。(農村での生活と比較すると、天国のような生活との説明であった。逆に言うと、沿岸21都市以外での貧困さの程度が判るというものである。)
日本では長引く不況の中、フリーターが増加。卒業したが就職出来ない若者が増加し始めた。普通の企業でも、年俸制が多くの会社で導入され、名ばかり管理職が増加し残業代が支払われなくなり、従来は殆ど無かった格差が目立つ様になって来た。今やホワイトカラーエグゼンプションが導入されようとしている。そしてまだまだ格差が広がって来る可能性がある。
小泉元首相は、米国の主張であるグローバライゼーションを中身を詳細に検討もせずに、世の中の流れ、善として受け入れ、民間方式=善、官による規制=悪 と明快に切り分け、グローバライゼーション=規制緩和を 葵の御紋として構造改革・規制緩和を実行して行った。その中の一つが郵政の民営化であったが、自らが指導する自民党の総裁・総理にも関わらず、自民党をぶっ潰すと言う激しい言葉使いや、身内の反対を抵抗勢力と定義付け、世の中の流れを上手く作り出した。
マスコミも、当初規制こそが自由な創業を阻害し、業界の癒着の構造を生み出す悪の温床の様に報道し、我々も政府による規制が企業の望ましい発展を妨げていると信じ、規制緩和は当然の流れと思っていた。しかし実際に規制緩和の後、格差社会に突入し、格差が大幅に拡大され、超セレブと言うか資産家を生み出す一方、多くの貧困層を拡大したというその結果に驚いている。しかも、金融緩和等では、年金財団がその資産を投資をすることにより、年金生活者自体もその様な格差社会を生み出す側に回り、格差社会に加担している格好になっている。格差社会に貢献せざるを得ない様な仕組みになって来ているのである。
2006年には北朝鮮を訪れた。食料品不足で餓死者が出ているとの報道の中、滞在した平壌高麗ホテル(国賓レベルを泊めるホテル)の売店には日本製品が溢れていた。食料品だけでなく、ナベ釜から、時計、靴、スーツ、シャツ等ブランド物等、何でもある。価格はユーロ表示であったが、韓国以外の外貨なら受け付ける。殆ど何でも手に入る。一般民衆は外貨の所持を禁止されている為、手は届かないが、政府の高級官僚は何時でも好きな時に入手出来る状況がつぶさに見て取れれた。
一方見学したアパレル製品の工場は、日本の戦後初期の最低レベルの工場の様なもので、21世紀に未だこの様な工場があることに驚かされた。戦後まもなくは日本も中国も、韓国も、北朝鮮も殆ど同じスタートラインからの再出発であった筈であるが、体制の違いでここまで差が出る事に対する正直な驚きを感じた。そしてここにも、貧困と格差が歴然とあった。
(北朝鮮での怖い話。:会議の後、短時間他の場所に移動する時、「貴重品を置いて行って良いですか」と尋ねた事がある。案内人の答えは、「大丈夫です。北朝鮮には悪い人は居ません。今いる人は皆良い人です。」であった。「悪い人は投獄するか処刑されるから、残っている人は良い人だけ」の意味だと中国の友人から小声で説明され、肌寒い思いをした。)
郵政民営化が達成された直後、小泉元首相の続投を望む声が高かったが、小泉氏は強い意志で首相を辞した。この辞任はもの凄い読みであったと驚かされる。もし首相を辞めないでいたら、今頃は政界、財界、民間から袋叩きにあっていた可能性が高い。側近に知恵袋と言うか、物凄い参謀がいて、退陣を進言したのか、兎に角、最高の辞任の仕方であったとEisenは思う。
今考えると、グローバライゼーションは一握りの資本家が喜ぶ世界を日本が追従していたに過ぎない。その結果多くの貧困層を生み出し、多くの問題を発生させていると思われるのである。
村山富市元首相は語る。「今、社会的にも政治的にも格差社会が問われている。賃金・労働条件は労使が決めるという原則がないがしろにされている。労働組合も自分達正社員の身分安定を優先させ、パートや派遣労働者の増えた格差社会を容認してきた。食品偽装や正味期限の改竄問題は健全な労働組合があれば、会社の不正を正し、未然に防げた可能性がある。」(朝日新聞08.08.15)
7)格差社会の解消
長々と60年代から現在迄の約50年間、半世紀の流れを垣間見てきたが、言わんとすることは
①社会保障が完備した北欧は別として、世界には貧困と格差が何処にでも存在する。
②(本稿で取り上げてない、一部の戦争地域や、アフリカの未開の小国等を除外すると)一般的には生活出来ない絶対的な貧困のレベルではなく、富裕層と貧困層の格差が問題となっていると考えられる。
(北朝鮮では、物資が無く餓死者が出ているというのは本当であると思うが、通常は其処まで行く前に、盗み等犯罪に走ることはあっても、餓死はしないものである。)
③しかし日本では、生活保護を打ち切られて、餓死者が出たと報道された様に、憲法第25条がありながら、それこそ待ったなしの支援が必要な貧困層が存在している。日本で貧困を理由に自殺者が多いと言われているが、それは何故か?早急な対応策が必要であるが、同時にその理由も多くの検証が必要であろう。(役所の対応者の非人間性等も有るかもしれないが、システムとしての問題点の解明が重要である。)
④そして最重要なのは、どの様にしてこの様な格差社会の問題点を克服出来るのか。
等が今日の課題である。
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右図は湯浅氏が書いた図にEisenが変更・追加をしたものである。
縦軸が格差を示し、横軸はその量、人数を示す。真ん中の黒い円が従来の比較的格差の少ない社会である。中流が一番多く、上下の人数は少ない。
現在の格差社会は青い上下に長い楕円であり、中流の真ん中が握りつぶされた結果の様なものである。
即ち、多くの規制緩和の結果、上の方のほんの一握りの成功者が社会を支配し、生活をエンジョイする一方、人間らしい暮らしの出来ない貧困層が黒の横一太線(最低限度の生活レベル線)より下に拡大している。
真ん中に横に広い赤の楕円がEisenが付け足した図である。即ち、中流が殆どで、上下には極めて薄い層があるのみで、低レベルの層も太線のかなり上にあり、最低限度の生活以上の人間らしい生活が出来るレベルを示している。
詰まり、横長の赤の楕円の様な社会が理想ではないかと言う話である。勿論黒丸がそのまま太線のかなり上の方に来る図でも良いがそれでは未だ格差が多く存在している。出来るだけ格差を縮めようと言うのである。 |
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この様な横長楕円の社会を実現する為の是正策が必要なのである。 下記に纏めてみる。
①高額所得者層、非常に儲かっている企業への大幅な課税
②知的財産制度の見直し
(保護期間、金額(収益)の見直し。注1:)
(投資額の何倍かを減価償却出来ることにするか、利益として認めるが、必要以上の利益は認めない。)
注1: 例えば現在の特許権は50年、それを70年にしようとか言う議論もある。しかし、それは長すぎるし、
そこ迄の優遇策を特許権者(企業を含む)に与える必要はないと考える。
音楽や出版、映画等多くの知的財産制度も長すぎる。必要以上の収入を個人や企業に
もたらし過ぎると思う。どの位が妥当かは簡単には言えないし、権利者の権利も守るべき
とは思うが、巨万の富を得させる必要は無い。それよりも、人類の幸福の為に使用される
部分を多くするべきではないか。その為、権利期間の短縮を図るか利益の限度を設定
すべきと考える。
(他国間ではラムゼー価格の採用も望ましい。注2:)
注2: 例えばエイズ等の拡大防止や患者の支援、救援に、高い薬価を押し付けても有効に機能しない。
所得が低い国では需要の価格弾力性が大きいので低い価格を設定するのが効率的である。
途上国の所得にあった価格を設定する必要がある。価格は低いが、ゼロではない。しかし、その儘
では低所得国から高所得国への並行輸入が行われ、薬の価格は高所得国でも低下してしまう。
この為平行輸入を禁止できれば、各国の所得に相応しい価格を決め、薬メーカーの研究開発費の
回収も可能となる。この様な価格弾力性に応じた価格の設定方式をラムゼー価格と言う。
但し、現在の世の中のままで、①②を実施すると、企業や資産のある個人は海外に逃避してしまう可能性が高い。
この場合、失業者の増大等、返って問題が出てくる可能性がある。
従って、雇用確保をしながら、又、企業にも納得できる方式を編み出さないと、たわごととしか見られない。
その為には、経営者、労働者双方が納得する論理、倫理、哲学が必要である。国民総幸福量等の概念の深耕と、新しい国家運営の理念が必要とされよう。
③高額納税者・企業への優遇措置、社会的評価の仕組みの検討
④人間教育、社会人教育、生涯教育システムの見直し
⑤職業訓練制度の拡充
⑥ハローワークの Iターン、Uターン、地方への回帰促進
⑦貧困層のパワーの結集、要求の取りまとめ。政策への提言。
⑧社会貢献事業の拡充(仕事の創造、介護等人材不足分野への教育制度拡充と人材の投入)
⑨起業だけではない、生活全般の再チャレンジ制度の充実 注3:)
注3: 多重債務者や貧困の当事者には、一般的には多くの場合、やはり甘えの構造があろう。
これは厳しく問われなければならない。しかし、人間は過ちを犯すもの。1回の失敗で再チャレンジ
し難い世の中となるのは好ましくない。(他人には迷惑を掛けたくない。しかし再チャレンジの機会
もない。先の希望もない。これが自殺の主な原因と思う。)世の中の犯罪の再犯率の高さは、
そうしないと生活できない社会の仕組み、再チャレンジ出来ない仕組みであるのも大きな原因
と考えられる。事業の失敗だけでなく、各種の失敗から立ち直れる様に、再チャレンジを容易に
すべきであろう。更正のし易い、再犯しなくても良い社会システムに変えて行く必要があると
思われる。そうであれば、年間3万人にも及ぶ自殺者は出ないと考える。
⑩最低限度の生活を維持する為の仕事提供システムの導入。(ステップアップ制度の拡充)
(生活保護制度ではなく、仕事提供制度とその強化への見直し)
要は保護の為の金のばら撒きではなく、自生するための各種支援、仕組みの確立である。
8)エピローグ
思い返すと、世界各国で結構色々な経験をして来た。しかしどこに行っても庶民は苦労している。そして一握りの裕福な人は自分達の生活を楽しみ、巨万の富を更に増やすことを考えて生活している様に見える。何故本の少しでもその富を分かち合おうとしないのか、不思議な位である。共産主義の中国の指導者や北朝鮮でも、それを感じた。人間の性は体制が違っても、変わらないとつくづく思う。
世界各国の経済政策の中、各国の思惑により、多くの駆け引きが行われる。日米間ではグローバライゼーションなどが叫ばれ、あたかもアメリカのMBA達が考え出した各種経営方式が最善の策の様に思われた時代もあったが、日本型経営方式も見直される機運が出て来た。長い目で見て信頼出来る労使環境を構築し、安定的に発展するには、日本型経営方式にかなりのメリットがあると思われる。
派遣社員の量を出来る限り少なくし、安心して働ける環境を作り出さないと、そこから弾き出された不満は大きな歪をもたらし、数十倍、数百倍のネガティブな影響を生み出す。秋葉原の無差別殺人が良い例である。言い方は良く無いかも知れないが「一寸の虫にも五分の魂である。」人間皆が幸せになれようにする。逆に言うと、自分だけの幸せを追求する事を出来る限り少なくし、格差のあまりない、平和な国となって欲しいものである。
その為には成功者の定義や世間の評価が、「巨万の富」ではなく「高い納税額」となり、それ以上に「社会貢献」や「他人に対する奉仕や支援」等へと変化しなければならない。その為には前掲のブータンの国民総幸福量(GNH)等の様な理念の構築と、それに基づく、幼い頃からの人間教育にも負う処が大きいと思う。
故に、これからの未来を指導する政治家達は根本から考え方を切り替え、利権に群がる集団ではなく、真の意味での公僕、奉仕の精神の具現者であらねばならない。その様な世界を作ることが貧困の撲滅に最も貢献するのではなかろうか。
又、今生きられるかどうか、緊急な支援が必要な人も居るとは思うが、全体として必要なのは自立した生活を支える社会の仕組みではなかろうか。単なる金の支援ではなく、仕組みの構築や政策の提言に力を入れる必要があると思われる。その意味で、今後の我々のすべき事は、単なる生活の傍観者ではなく、新しい仕組み構築の為の、理論の纏めや具体的提言へ向けての努力、情報発信者とならなければならないと考える。
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